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STATEMENT

-都市の光景-

 現在、近年急速に普及したソーシャルネットワーキングサービス(以下SNS)や、パンデミックによるオンライン授業への移行が、インターネットを介した社会形態を構築している。つまり、私たちはフィクションが真実を形成し、資本主義を加速させる現代社会の只中にいる。まさに、加速主義者ニック・ランドの言うハイパースティショナルな社会であると言えるが、われわれはそうしたインターネットの交流のさまざまな場をもち、同時に現実の場をもつ、「多重生活者」として暮らしている。

 

 このような様相を鑑みると、同じ水平面上に仮想世界が位置していると仮定することができる。要するに、現実で見る風景や人物や色彩とバーチャルのものとの差異が、ほとんど違和感なく浸透している状態である。また、SNSに注目すると投稿される写真の多くが、何らかのアプリケーションで加工が施されており、それが常態化している。

 

 しかし、このようなフィクション的な美の概念に対して疑問視する声もあり、反写真加工ムーブメントに位置するフィルター・ドロップ・キャンペーン(#FilterDrop campaign)のように即物的なものの捉え方を再構築するような風潮が高まってきている。このことから、現実と仮想の境目について再認識する必要があると考えた。

 

 現実世界と仮想世界が平滑になっている現状を、絵画を用いて可視化することにより、現実が示す現代の光景を再認識することができるかどうかを検証した。

 

-ゆらぎの観測-

 “ゆらぎ”という言葉の存在を知ったのは、木の年輪の断面図などが載っている植物図鑑を眺めていた時のことである。

年輪から読み取れる同心円状の模様には不規則なリズムがあり、この不規則なリズムのことをどうやら“ゆらぎ”と呼ぶらしい。

 “ゆらぎ”とは四季の移ろいや気候変動によって生まれる自然界のリズムのことを指し、年輪以外にロウソクの炎や小川のせせらぎなど、自然界に存在している自然がもたらす事象である。またその事象には、人を癒す効果があると科学的に実証されている。よく「自然を前にすると安らぎが得られる」と言われるのも、この“ゆらぎ”の効果のおかげであることは明白である。

また、都会の街並みを見渡してみると、ありとあらゆる場所で“ゆらぎ”らしきものを感じることができる。

注意深く観察すると“ゆらぎ”の効果を利用して、人々の生活空間に応用されているということも見て取れた。

 例えば、東京にある表参道通り。煌びやかな商店街が連なる中、ケヤキ並木がズラリと並んでいて商店街と隣接している。規則的な建物の中に不規則的なリズムが加わることにより調和らしきものが生まれ、自然のぬくもりや安らぎを感じることができた。

 

私はこの自然界がもたらす不規則なリズムの心地良さが、芸術作品一つ一つにも存在するのではないかと考えている。

 

 よく素晴らしい作品を目前にすると、ずっと見ていたいという欲や、家に飾りたいという衝動、見ているだけで幸福感や充実感が湧き出てきてしまう経験をしたことがある。もしもその作品がそこまで考えられていて、それらを受けた感情が一種の安らぎに似ているのだとしたら、癒しの効果があるとされる“ゆらぎ”が作品に存在しているのだと私は考える。

 

私は感情と接点のある色彩効果やその可能性と合わせて、この“ゆらぎ”を観測していきたい。

 

 

-痕跡とメッセージ-

 住宅地を散歩をしていると、色々なものが目に映り込んでくる。古びた民家や新築のマンション、地面に生えた草や花、街灯や電柱。その目に映り込んでくるもの一つ一つに、それぞれの経緯と物語を感じる。どんなに同じ形をしていても、環境や状況によって大きく変化し、それぞれの表情を見せてくれる。私はそういった変化を目にした時に、いつも感銘を受けてしまう。

 

 なぜなら、自然の持つ創造性はなんとも豊かであるからだ。コンクリートの壁に少しヒビが入っていたり、石に少しコケが生えていたり、おそらく予期して出来たものではないだろう。しかし、予想外であると同時にとても興味深い表情と色彩をしている。その自然に出来上がった予期しない表情と色彩には、強いメッセージ性があると私は考えている。過酷な環境に晒されたのか、はたまた放置されたのか、大切にされたのか。出来上がったその表情には、想像力を掻き立てるほどの情報量が存在している。

 

 私は、いつしかそれらの表情から読み取れるメッセージを読み解くことを楽しんでいた。自然的な創造と人口的な想像が組み合わさることで、空間の雰囲気が生まれる。思い込みなのかもしれないが、悲壮感や躍動感は確かにその両者が組み合わさった空間に存在している。生命が生み出す表情と色彩は自然的に、あるいは人口的に、やがて痕跡となってその地に現れ、何食わぬ顔をしてメッセージを伝え続けているのかもしれない。

 

 

-民族衣装と色への興味-

 

 マサイ族が赤い服を切る理由として、ライオンから身を守るためだと民俗学の講義で聞いたことがある。色彩一つ一つにも意味があるのではないかと模索し始めたのは、丁度この頃であった。もともと原色を一種の言葉、あるいは感情として扱ってきた私は、色の組み合わせとその方向性について客観視する必要があった。内面から引き起こされる色彩と違い、民族衣装は主に外に対する主張を目的としていた。危険な動物から身を守るためや、部族間の仲間意識のため、あるいは威厳を象徴するためだったり。いずれも、民俗学的な色の存在意義は外に向けてであって、色彩は一種の装飾として意味を成していた。

 色彩には不思議な力が存在する。それは「冷たい」であったり「軽い」であったり、実際触ったり食べたりしていなくても感覚が生まれるということである。例えば青いカレーに緑のご飯を合わせても食欲は湧かないし、真夏に一面真っ赤な空間に閉じ込められたら、心なしか暑くなっていくとさえ感じるであろう。色には五感を刺激する要素があり、「色彩の心理効果」として数々の場所で認知されている。

 

 民族衣装の外的な効果は、まさにこの「色彩の心理効果」の影響によるところが大きいだろう。この「色彩の心理効果」と民族衣装から見られる「装飾的な色彩」という二つの意味合いを言及し、表現していくことが、自身の色彩の可能性を引き出すと私は考えている。

 

 

 

-流動する感情-

 作品を通して、目に見えない意思や感情を視覚化することにより、感情の本質をより鮮明に表現できるのではないだろうかという試みを行っていた。

 

 そして、画面に起こした数々の絵の具をみて、絵の具の持つ独特の魅力と可能性に心を惹かれるようになる。無造作に描かれた数々の絵の具に映るものは、まるで私自身の感情を代弁しているかのように思えた。

 

 絵の具はやがて、私の感情を表すツールへと変化していき、その痕跡が形となって画面へと定着していくようになった。その過程の中では、一種の会話のような動作が行われる。また細かな駆け引きも生まれる。その一連の動作を、私は「流動」と呼んでいる。

 

私にとってそれは、一種のコミュニケーションツールであり、私自身の言葉以上の言葉である。

 

-日常とイメージ-

 

 ある現象を「違う視点」から見たとき、人はどんな反応をするだろうか。人は納得しないだろうか。そんなものありえないと非難するだろうか。散歩をしながら、日常の風景の視点をほんの少し変えたり、意外な組み合わせをしてみたり、普段気付けない驚きや発想をおもむろに探すことが、他とは異なる、個性的な私のささやかな趣味であった。

 

 日常生活から見えてくるたくさんの現象は、何気なく目に映り込んでくる。だからこそ、少し「違う視点」で観察したり、色々なものを組み合わせたりして、映り込んでくる視覚的な常識の殻を破ってみる。そうすることで私は「そうかもしれない」「そうだったらおもしろいな」と世界の視野が少し広がって見えるような気がしてならない。

 

​ 私は、まさにその「違う視点」にこそシュールレアリスムの膨大な可能性を感じる。

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